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~3万7千の民衆を率いて戦った救世主~天草四郎の足跡をたどる
~3万7千の民衆を率いて戦った救世主~天草四郎の足跡をたどる

2021年、生誕400年を迎えるとされる天草四郎。日本の歴史上最大規模の一揆「島原天草一揆(天草・島原の戦い)」で、16歳にして一揆勢の総大将となった四郎はどんな人物だったのか?

天草四郎とはどんな人?

天草四郎は益田甚兵衛の長男として生まれ、本名は益田四郎。上天草市は、天草四郎の故郷になります。
歳で手習いを始め、蘭学等を学ぶため度々長崎へ渡っており、教養豊かな人物であったといわれています。

時は1612年、徳川秀忠の時代。

キリスト教の禁教令がしかれ、人々は実際の石高の2倍にあたる重い年貢に苦しめられていました。


そうした状況の中、口之津(南島原市)で天草から嫁いできた妊婦が、年貢を納められなかったことを理由に、寒中の川にさらされ代官に殺害されるという残虐な事件が発生。キリシタンや農民の怒りが爆発します。

救世主・天草四郎、現る!

天草四郎公園・殉教天草四郎之像

民衆は国外追放されたママコス神父が残した予言である「今から25年後、東西の雲が赤く焼け、国中が鳴動するとき、一人の神童が現れて、人々を救うであろう」という言葉を忘れずにいました。幼少より聡明で容姿端麗だった四郎はカリスマ性があり、キリシタンたちの間で次第に救世主的存在と見なされるようになります。


そして1637年10月、大矢野の宮津教会で四郎を一揆勢の総大将として擁立。11月に島原で一揆の火の手が上がり、続いて大矢野町へ。一揆勢は大島子(天草市)、町山口川(同市)の戦いで勝利を収め、勢いに乗って富岡城(苓北町)を攻めますが、難攻不落の富岡城攻めをあきらめ、海を渡って原城(南島原市)へ向かいました。しかし3か月におよぶ籠城の末、幕府軍の攻撃に耐えきれず、ついに四郎も討ち取られてしまいました。


多くの民衆を率いて戦った若き総大将・天草四郎。その生涯は未だ多くの謎に包まれています。


生涯400年を迎える2021年、ゆかりの地上天草で四郎の息遣いを感じながら、歴史ロマンに思いを馳せてみませんか?

 


上天草にある「天草四郎」ゆかりのスポット~謎多き四郎を知る~

天草四郎ミュージアム

天草四郎が生き抜いた時代を体感

天草四郎ミュージアム

天草四郎を中心に繰り広げられた島原天草一揆の歴史的背景や、南蛮文化の影響を受けた当時の様子を映像・ジオラマで紹介。展示室では、熊本大学・安高啓明研究室による実物史料を用いたキリシタン展示や定期的な企画展を実施しています。


TEL:0964-56-5311
住所:上天草市大矢野町中977-1
営業時間:9:00~17:00(最終入館は~16:20)
休館日:12/29~1/1、1・6月の第2水曜
料金:大人600円、中学生以下300円、幼児無料

森宗意軒神社(もりそういけんじんじゃ)

天草四郎の同志を祭る神社

森宗意軒神社

天草四郎率いる一揆勢の参謀の一人で、医学にも精通していた森宗意軒を祭った神社。
故・山田風太郎の小説「魔界転生」にも妖術師として登場します。地元では「もりすけさん」の愛称で親しまれ、ここにお参りすると「体調が良くなった」「歯痛が治った」などの霊験を伝える逸話も多いとか。


TEL:0964-56-5602(天草四郎観光協会)
住所:上天草市大矢野町中柳地区

湯島

天草・島原両軍の談合伝説が残る島

周囲4㎞の小さな島に、住民約300人と約200匹の猫が穏やかに暮らしています。
島原天草一揆の際には、天草と島原双方の一揆勢が談合を行ったことから、別名「談合島」と呼ばれ、今でも島の各所に「談合の碑」や「キリシタン墓碑」があります。島内の諏訪神社の境内には、武器製造に使ったと言われる鍛冶水盤も現存。


TEL:0964-56-5602
住所:上天草市湯島
アクセス:江樋戸港から定期船で約30分
料金:大人(中学生以上)600円、小人300円

湯島

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